- 多くの解説では肝心なことが不明確
- ふつうの会話はこんなふうになるが
- 「正しい方向に行きたい」「正しいことがわかっている」
- 多くは正解のわからない未知の問題
- 「受容と共感」「相手と同調しよう」だけでは…
- 「思い込み」を自覚する
多くの解説では肝心なことが不明確
私は学生さんや若者の就職相談を専門とするキャリアカウンセラーで、これまで9年ほどの実務経験があります。相談者との対話を何千回か行ってきました。そして何千回経験しても、やはりむずかしいものだと思います。
キャリアカウンセリングのような、人の相談にのるという行為で、最も重要な核は「傾聴」という技(わざ)です。これはたしかに簡単ではありません。
傾聴とは何か。傾聴については、ネットを少し検索するといろんな解説記事をみかけます。しかし、それらの記事(全部みたわけではありませんが)は、傾聴の肝心のところを明確に述べていないように思えます。では何が肝心なのか。
それは一言でいえば「“正しい方向”へ行こうとしない」ことです。これについて解説します。
ふつうの会話はこんなふうになるが
傾聴とは、相談してきた人の話にしっかりと耳を傾けることです。まあ、それはわかりきったこと。
肯定・否定の判断をせずに、聞く。話の腰を折ったりしない。結論を急がない。自分の考えを押しつけない。相手の話を、そのまま受けとめる。
これって、なかなかできないです。ふつうの会話は、こんなふうになりがちです。
「あたし、もう部活辞めたいな…」
「最後までがんばったほうがいいよ、がんばれば光がみえてくるから」
こんなふうに自分の価値観のほうへ、話をもっていこうとしてしまいます。よかれと思ってそれを行うことも多いです。
私たちは、つい「ためになる話」で相手を導こうとしてしまう。それでは相談の対話はだいなしです。相談した側は「話すんじゃなかった」となります。
「正しい方向に行きたい」「正しいことがわかっている」
「傾聴」をテーマにした一般向けの入門書に、鈴木秀子著『心の対話者』 (文春新書、2005年)という良書があります(上記の「傾聴」の説明も、この本がベースです)。
この本で鈴木さんは、相談の対話がうまくいかない心理について、こう述べています。
“(傾聴せずに)相手を受け入れまいとする姿勢を生む第一の要因は、「自分が正しいと思っている方向に行きたい」という願望にある。その背後には「自分には正しいことがわかっている」という思い込みがある”
“対話が破綻する前提には、「会話とは自分の意見や話を披露する場」という思い込みがある”
つまり、傾聴の基礎として不可欠なのは「自分には正しいことがわかっている」という思い込みを捨てることなのです。あるいは「わかっている自分でありたい」という願望を捨てる、といってもいいかもしれません。
多くは正解のわからない未知の問題
そもそも「何が正しいか」なんて、相談された側にもわからないです。
小さな子どもが聞いてくることや学校の教科書の問題のように、年長者や学んだ人なら容易に答えがわかることは、この世の問題のなかではほんの一部です。世の中で人びとが直面する問題の多くは、正解のはっきりしない未知の問題です。
それを「正解がわかっている」かのように話すのは、現実に即していません。現実に即さない態度をとれば、対話において違和感やあつれきを生んで当然です。
私は学生さんの就活の相談にのってきましたが、その人にとっての「正しい方向」なんて、実際のところ、まずわかりません。
だから、相談者の話をよく聞いて、いっしょに考え、情報を出し合って、どうにか方向を探っていくしかない。それで方向性がはっきりしないままのときも、多々あるわけです。
「受容と共感」「相手と同調しよう」だけでは…
「正しいと思っている方向に行きたい」という願望を捨てる。そのために「自分には正しいことがわかっている」という思い込みを捨てる。
これが傾聴において、最も肝心なことです。
でも、よくある感じのネット上の「傾聴」の解説では、このことが明確に述べられていないです。
「受容と共感が大事」とか「相手の立場になって、相手の気持ちを知ろう」という話は、その通りなんですが、それだけでは何も言っていないに等しいと思います。
テクニックとして「相手と表情や声のトーンを同調させよう」とか「相手の発言のくり返しをする」といったことは、たしかに有効かもしれませんが、枝葉の話です。
「自分が正しいと思っている方向に行きたい」という願望が捨てきれず、自分がその願望を持っていることに無自覚なら、テクニックはむなしいだけです。
「“正しい方向”へ行こうとしない」というのは、「受容と共感」ということを、より明確な発想の仕方として述べたものですし、テクニックの基礎となる精神です。
「思い込み」を自覚する
偉そうに述べていますが、私も、この手の「自分はわかっている」という思い込みにどっぷりつかっている人間のひとりです。
そして、私にかぎらず中年以上の大人の多くはそうなのではないでしょうか。傾聴が苦手な中高年は多いです。経験豊富だと自負しているので、ついつい「正しい方向」へ相手を導こうとしてしまうのです。
そして、親や先生という立場も、「自分はわかっている」という思い込みを強化します。カウンセラーが、傾聴すべき場面で正解を知っている「先生」のような立ち位置で話してしまうこともある。
ただし、「自分には正しいことがわかっている、という思い込みが対話にとって有害だ」という自覚は、思い込みを緩和してくれるはずです。
もちろん、世の中の対話は、傾聴が求められることばかりではありません。「意見や話題を出しあって交流する」「ある方向へ人を導く」ことが求められる場面も、社会生活のなかでは多くある。
でもそうではない、「傾聴」を軸とした対話がぜひ必要なときもある。傾聴してもらうことを求めている人は多くいる。
だから、この傾聴ということについて認識がある人が、社会で増えたほうがいいわけです。
また「中高年は傾聴が苦手」といいましたが、もしも中高年で傾聴ができる人になったなら、それは貴重なことで、世の中での自分の価値を上げることにもつながると思います。
***
私をよく知る人は、以上のような傾聴についての話を私が述べているのをみたら、笑うでしょう。
私は親しい人と話すと、自分の見解や知識の「披露」ばかり。放っておくとそれを何時間も続けている人間ですので。このブログも、その精神でみちあふれています。まあ、情報や視点を提供するためのブログですから、仕方ないです。
それでも私だって、必要な場面では傾聴に努めているつもりです。それができるよう、勉強して成長しようとしているのです。